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Aug. 27 2003
パーシヴァルの星空

せっかく火星も近づいていることですから、久しぶりに星の話をしましょう。探査機の話ばかりするのもなんなので、今回は火星にゆかりの深い天文学者を一人紹介したいと思います。彼の名前はパーシヴァル・ローウェル、19世紀の天文学者です。

知っている人も多いでしょう、「火星に運河がある」「火星人はきっといる」と大騒ぎした人として有名です。彼は、冥王星の存在を数学的に予言してみせるという天文学的な偉業を成し遂げた人物でもあるんですが、こっちはあまり有名じゃありません。「火星に知的生命体がいることを頑なに信じ、一生をかけて観測を続けた変人天文学者」というイメージがあまりに強烈だからでしょうか。個人的には、彼のこういうところが大好きなんですけどね。


さて、これは殆ど知られていませんが、彼は幾度となく日本を訪れ、一時期はここに住んでいました。日本に関する著作も多く、アメリカに日本文化を紹介した最初期の人物の一人です。ラフカディオ・ハーンとも交流があり、彼に多大なる影響を与えたともいいます。

毎夜、天体望遠鏡を夜空に向ける天文学者というイメージからは遠く、彼はかなりアクティブな人でした。ローウェルは1855年3月13日、アメリカ、マサチューセッツ州ボストンの裕福な実業家の家に生まれました。13歳の頃から天文観測にはまり、特に火星に異常なほどの興味を示したといいます。大学卒業後には、友人と共に英国からシリアにかけて旅行をし、セルビア-トルコ戦争に参加しようともくろんで失敗したりしています。その後6年ほど祖父の事業を手伝ったりしていましたが、1883年に親友のスタージス・ビゲロー(ボストン美術館のジャパンコレクションの創始者です)とともに、アメリカ大陸を横断、さらに太平洋越えて日本に渡ります。

日本について数ヶ月間、彼は東京に居をかまえ、日本人の召し使いを雇い、日本語の勉強に専念したといいます。しかし、8月には、アメリカ大使館の命を受け、朝鮮からワシントンに派遣される特別外交使節団の随行員として帰米。2ヶ月弱の滞在の後日本を経由して京城へ、さらにそこで3ヶ月をすごし、日本に戻ります。これが最初の一年。翌年の夏には、再び日本を離れ、シンガポール、インド、ヨーロッパ経由で故郷のボストンに戻ります。当時は当然飛行機なんてありませんから、全部船旅です。元気ですねえ。

かれが次に日本を訪れたのは、5年後の1889年(明治22年)1月。半年の滞在中、能登を旅行し後にこの体験を「Noto」というタイトルで出版しています。さあ、アクティブすぎてだんだん飽きてきましたが、一気にいきましょうか。6月には帰米し、翌年1890年の1月にはスペインへ旅行、ロンドンを回って5月に帰米。その年の冬にはヨーロッパ周りで日本に向かい、1891年4月に来日。ラフカディオ・ハーンと交流を持ったり、御嶽山に登ったりしたあと10月に帰米。1年後の1892年12月に、6インチの望遠鏡を携えて再度来日します。この頃、ローウェルは真剣に日本に天文台を建てることを考えていたようです。この滞在はそのための滞在だったとも言われています。約1年の滞在の後、帰米。そしてこれが最後の日本訪問になりました。

日本を去ったその年、彼はアメリカアリゾナ州フラッグスタッフにローウェル天文台を創設します。そして彼はここに腰を落ち着け、天文学に没頭し始めます。彼がかの有名な「火星」を書いたのは天文台創設の翌年1894年でした。火星には高等生物が存在し、火星に見られる暗い筋は彼らが築いた運河であると主張する本です。火星に見られる規則的な縞模様は、火星にいる知的生命体によって建設された、極地の雪解け水を赤道付近まで運ぶための運河である。彼はそう主張しました。

彼に大きな影響を与えたのは、ジョヴァンニ・スキャパレリ(あのジョバンニ少年の名前の由来ですね)。彼は火星を詳細に観察し「地図」を描きました。そこに描かれた暗い筋のことを彼は「カナリ(canali)」と呼んだんです。これはイタリア語で「溝」を意味する言葉でしたが、せいぜい自然地形の海峡や谷を意味するものです。しかし、これが英語に翻訳され「canal(運河)」と訳されてしまいます。この単語は自然地形というよりもむしろ人工的に作られた河川を意味します。ここから全ての誤解が生まれました。若い頃から火星観測に没頭し、スキャパレリに心酔していたローウェルはそれを文字通り受け取り、その言葉を観測によって証明してみせたんです。

ただ、スキャパレリの「運河」と知的生命体を存在を結びつけたのは彼が最初ではありません。彼が「火星」を発表する2年前、1892年にフランスのフラマリオンが火星の網目模様は人工的に作られた運河であるとする説を発表しています。

スキャパレリが火星の地図を発表したのは1887年。フラマリオンの発表が1892年。ローウェルが「火星」を発表するのが1894年。この7年間は、彼が頻繁に日本を訪れていた時期でもあります。彼がこの日本で望遠鏡を火星に向け、その想いを醸成させていたと考えるのも、なかなか悪い想像じゃないかもしれません。なにしろ、ローウェル天文台は日本にあったかもしれないんですから。


彼の主張は同時代の学者から受け入れられたわけではありませんでした。ごくわずかに、彼に同調した学者もいましたが、多くの学者が「運河」を発見することができず、彼を批判しました。実は、彼に最も痛烈な批判を行ったのはちょっと意外な人物です。アルフレッド・ラッセル・ウォレス、聞き覚えのある人もいるでしょうか。ダーウィンとともに進化論の基礎を築いた人物です。ウォレスは、地球より重力が弱く太陽から遠い火星では気圧も気温も極めて低く、液体の水を運河に流すのは非現実的であると指摘しました。運河を作れるような知的生命体がいるのなら、そのような環境で運河を築くことを選択するはずがない。

こうした批判があったにもかかわらず、ローウェルの主張は、一般の人々に熱狂的に迎えられました。彼に影響を受けて、H・G・ウェルズが「宇宙戦争」を書いたのは有名な話です。当時、水理学は最先端の技術でした。ダムや運河なとが次々と作られ、船による輸送網が覆い尽くしていた時代です。火星の知的生命体が自分たちと同じ技術をさらに発展させていると考えるのはごく自然なことだったんです。

その後、望遠鏡の性能はどんどん上がり、惑星探査機が送られるようになって、火星の運河は姿を消しました。今見ると、彼が書いた運河の地図は火星の地形とはほとんど無関係に走っています。彼が、望遠鏡の中に何を見ていたのか今となっては知るよしもありません。砂嵐の軌跡なのか、当時の暗いレンズと大気の揺らぎが見せた幻影なのか。その後、火星の上には、知的生命体の痕跡と思われるものは、一切見つかっていません。

それでも、世界中の科学者が今もなおあの星に生命の存在を探し求めています。実は、運河こそありませんでしたが、あの星に水が存在することはほぼ間違いないようです。大半は、地中に氷という形で保持されているといわれています。また、かつて液体の水が大量に存在した証拠とされる地形も次々と見つかっています(これには否定的な意見も少なからずあるんですけどね)。そして、今もなお僅かながら液体の水が存在するという意見さえあります。そう、まだあそこには生命が存在するかもしれないんです。


さて、ごたくはこれぐらいにしましょうか。今、真夜中に南の空高く、とても明るく輝く赤い星が見えるはずです。慌てなくても大丈夫、9月一杯ぐらいは好条件が続きます(だんだん南中が早くなりますから、真夜中でなくても観測できるようになります)。あれが、今なお太陽系で最も生命が存在する可能性の高い星です。

もしかしたら、そう遠くない将来、「火星に生命の兆候を発見」の報を耳にする日がくるかもしれません。地球以外の星で生命が生まれたという事実は、この星空を限りなく豊かなものにするはずです。そのとき初めて、私たちはパーシヴァル・ローウェルが見上げていた、あの生命に満ちた夜空をもう一度見上げることができます。それはたぶん、昨日の夜空と何一つ変わることのない、素晴らしい光景でしょう。

(Aug. 27 2003 updated)

by isana kashiwai