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Jul. 16 2004
ホーキング、また賭けに負ける

Hawking cracks black hole paradox (New Scientist)
Hawking changes his mind about black holes (news@nature.com)

どうやら、ホーキング博士はまた賭に負けたようです。「ブラックホールに落ちた物質が保持していた情報は永久に失われるか否か?」という有名な賭は、失われないという結果をホーキング博士自ら発表し、負けを認めることになりました。その内容については、2004年7月21日の学会で発表されるそうです。今回、賭に勝ったのはジョン・プレスキル博士。ホーキングとキップ・ソーンは「情報は失われる」に賭けていました。勝ったプレスキル博士には、情報は失われることがない、という意味を込めて百科事典が送られることになっています。
John Preskill's Bets

さて、この賭の内容を理解するには、量子力学とホーキング博士のブラックホール理論の知識が必要です。ちょっと長くなりますが、やってみましょう。

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まずは、量子力学からです。

我々がものを「見よう」とするとき、光などの電磁波を使いますね。もちろん、ボーリングの玉を見ても、ボーリングの球は動きません。でも、これが原子や素粒子などの微細な粒子だと話が違ってきます。観測する粒子よりも"光"の波長が長いと粒子ははっきりとは見えません(すり抜けてしまってほとんど反射しませんからね)。粒子の位置を正確に観測したければ必然的に波長の短い"光"を使うことになります。でも、波長の短い"光 "は、エネルギーが大きくて粒子を押してしまうんです。そうすると粒子の速度が変わる。粒子の位置が分かっても、元々粒子が持っていた速度は分からなくなります。逆に粒子を押さないように長い波長の"光"を使うと、今度は位置がはっきり分かりません。ミクロの世界では観測することそのものが観測対象に影響を与えてしまい、粒子の速度と位置の両方を正確に測ることはできない。これが「不確定性原理」です(この説明では粒子の位置と速度の不確定性)。

不確定といっても、粒子の挙動が全く予測不能かというとそうではありません。量子力学では、古典物理学のように1回1回の観測結果を正確に予測はしません。代わりに起こりうる観測結果を確率的に表現するんです。1回さいころを投げたときの結果は予測することはできませんが、沢山投げれば、だいたいどの目も1/6で出る可能性が高いことが分かりますよね。量子力学では物理量をこんな風に表します。「粒子がこの位置にいるのは100回のうち2回ぐらい」。

これは20世紀に科学者のみならず哲学者まで巻き込んだ大論争になりました。我々は世界の様子を正確に把握することができない、ということを証明してしまったからです。「Aという結果が出るかBという結果が出るかは観測してみないと分からない」、「分かるのはAという結果とBという結果が出る確率だけ」。方程式ですべての予測ができると信じていた科学者は愕然としました。アインシュタインもその一人、彼は最後まで量子力学に反対していました。彼の「神はさいころ遊びをしない」という一言はあまりに有名です。

量子力学の分野で理論的な予測が沢山なされ、ことごとく観測結果と一致しました。不確定性原理は観測事実と言ってほぼ差し支えないでしょう。たとえば、量子力学は半導体の挙動を正確に予測しています。もし間違っているとコンピューターはまともに動きません。さて、私たちは呆然とする頭の固い物理学者を置きざりにして、次へ行きましょう。

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量子力学は、何の粒子も存在しない「からっぽ」という状態はあり得ないと予測します。なぜか?重力場や電磁場などの場の強さとその時間的な変化は、先ほどの例でいう粒子の位置と速度にあたる「両方を同時に決めることができない量」です。量子力学では、片方の値をゼロだとすると、もう片方の値をゼロに固定しておくことができません。両方ゼロだと不確定性原理に反します(反しちゃいけません、なにしろ原理ですから)。量子力学に従えば、何もない空間には何もない、ということを正確に把握することができないはずなんですね。じゃあ、何があるんだ?

これに対する説明はこうです。なにもない空間(=真空)ではいたる所で粒子と反粒子のペアが生まれては、すぐに対消滅して消えるという現象が繰り返されている。つまり、「何もない空間」というのは平均すれば何もないだけで、実は、ぱちぱちざわざわと粒子が生まれたり消えたりしている。これが量子力学の「真空のゆらぎ」と言われる現象です。この現象は、原子内の電子の軌道にわずかな変化を与えるというかたちで観測されており、量子力学による理論的な予測と実際の観測結果がかなりの精度で一致しています。

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さて、ようやくスティーブン・ホーキングのブラックホール理論を説明できる所まできました。

ブラックホールは知ってますよね。あの、ばんばん何でも吸い込むやつです。光でも吸い込んじゃうから真っ黒、だからブラックホール。老齢になった巨大星が、自分の重力に耐えられずに崩壊し、どんどん圧縮した結果、表面での脱出速度が光速を越えたものです。まあ、これにも理論と発見の歴史があるんですが、今回はやめときましょう。

さっきの「真空のゆらぎ」を思い出して下さい。ホーキングはブラックホールが存在すれば、真空のゆらぎで生まれる粒子の片方だけが吸い込まれ、片方が残るという現象が起きるはずだと予想しました。この残った方の粒子はブラックホールの外から観測され、あたかもブラックホールからエネルギーが放出されているように見えるはずです。これが「ホーキング放射」と呼ばれる現象です。かくしてブラックホールは、エネルギー(=質量)をどんどん失い、最終的には蒸発してしまいます。ただ、この効果はとてもわずかで、ある程度の大きさを持ったブラックホールだと、ほとんど放射は観測できませんし、消滅するまでもの凄く時間がかかります。

公式を書いておきましょうか、まあほら、有名人のサインみたいなものですから。『T=(h*c^3)/(8pi*k*G*M)』(h=プランク定数、c=光速、pi=円周率、k=ボルツマン定数、G=ニュートン万有引力定数、M=ブラックホールの質量、T=ブラックホールの温度)。h、c、pi、k、Gは定数ですから、ブラックホールの温度Tは、質量Mだけで決まります。Mは分母にありますから、Mが小さければ小さいほど熱いということですね。熱いということはエネルギーをたくさん放出しているということです。つまりブラックホールは小さくなると急速にエネルギーを放出して消えるということです。おそらく、最終段階では爆発的にエネルギーを放出すると考えられます。

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さて、ここで疑問が1つ残ります。ブラックホールが消えてしまうとしたら、そこ落ちてしまった物質はどこへ行くんでしょうか。たとえば、太陽に何かを放り込んだとすれば、それは熱や光、あるいは何らかの粒子に変化して放出されるでしょう。物質とエネルギーの間に変換が起きれば、普通はその間には相関関係があります。理論的にはその放出されたものを観察することで元の物体がどんな性質を持っていたかという情報を再構成できるはずなんです。しかし、ブラックホールの場合、ホーキング放射は量子力学的な現象でブラックホールに落ちた物質とは何の関係もありません。何を飲み込もうと、純粋に量子力学的な効果に従ってエネルギーを放出します。もちろん、エネルギー的な収支は合っていますから熱力学のエネルギー保存即には矛盾しません。でも、そのエネルギー放射はブラックホールに落ちた物質とは関係ないのです。だとすれば、ブラックホールを構成している物質やブラックホールに飲み込まれた物質の情報は完全に失われてしまうんでしょうか?

ホーキングはかつてこの問いにYesと答えました。情報は永久に失われてしまうのだと。でも、これ異を唱える人もたくさんいます。なによりこの情報の消失は量子力学に反しているのです。なにしろ、ブラックホールに落ちてしまった物質の性質は確率的にさえ追跡できないことを意味しますから。これがブラックホールの情報喪失問題(Black Hole Information Loss Problem)です。ブラックホールの理論が不完全なんでしょうか?それとも、量子力学にも例外が存在するんでしょうか?

この問題は宇宙物理学の中でも大きな課題の1つとされており、世界中の研究者がこの問いに答えるべく理論を展開してきました。特に超ひも理論の研究者たちが精力的にこの問題に取り組んでいます。今回、ホーキング博士がこの問題に対して自ら答えを出したことで、大きく理論が進展することが期待できます。なにしろ、この問題を提示した張本人ですからね。

(Jul. 16 2004 updated)

by isana kashiwai