一般的に技術というものは“革新”されるものだと考えられている。本当にそうだろうか。ライティングに議論を限るならば、多くの研究者は、声の文化から筆記、グーテンベルグ革命を経て印刷、そして、電子メディアへというメディア進化論を主張する。確かに、我々はこれまで、ある技術がそれまでのものと取って代わり、瞬く間に世界を覆い尽くすのを何度も見てきた。自動車の発明然り、コンピューターの発明然りである。
しかし技術革新を、技術そのものが拡大してゆくプロセスとしてではなく、技術が社会生活や人間の思考に影響を与えていくプロセスとして捉えるならば、それは革新的というよりむしろ、重層的とも云うべきプロセスをたどるのではないだろうか。
メディアの革新に限らず、技術革新が一夜にして社会生活を激変してしまうことはごくまれである。多くの場合、新しい技術は既存の技術をより効率の良い形で模倣するところからスタートする。初期の自動車は馬のいらない馬車であり、初期の印刷は写字生のいらない写本だったのである。
「実際、グーテンベルグ聖書は、行間のあけ方やハイフネーションが手書きでするよりも規則的だという点をのぞいては、状態のいい手写本とほとんど区別が付かない」
印刷技術について言えば、この技術革新が印刷物の形態(context)を変化させるには、しばらく時間をおかねばならなかったし、その形態の変化が内容(contents)にまで影響を与えるにはさらに時間がかかったのである。(この手写本から印刷への“緩やかな”移行に関しては後に詳しく述べる) 一般的に、メディアの技術革新がその形態に影響を与えるにはある程度時間がかかる。それは最初、既存のメディアの模倣ないし変奏として出現し、やがてそのメディア独自の形態が生まれる。内容の変化は形態の変化にともなって進行し、しばしば互いに影響し合う。そして多くの場合、このプロセスは人々にとって無自覚的に進行する。
テキストにはライティング、編集そして流通(ここには“読まれる”ことも含まれている)の三つのフェイズがある。これらは互いに密接に関係しているが、一方、厳格に区別されるべきものである。
ライティングとは、言葉を一字一字文字あるいはそれに類するものに置き換え、何かの上(粘土板や紙、シリコンチップ等)に記録する作業である。物理的にはペンを動かしたり、キーボードのキーを叩くことがこれにあたる(テキスト作成における精神的なプロセスはここでは問題にしない。)。
編集とは、ライティングによって“書かれたもの”に対して、修正や変更等の操作を行う作業をいう。推敲と呼ばれる作業から、誤字脱字の修正まで、ほとんど全てのテクストは何らかの編集作業を経ているといっても過言ではない。
流通とは、テキストが第三者の手に渡り、読まれることを中心として、それに至る過程、複製や出版などを含む。 以下、本論では上記のプロセスがいかに進行するかについてより細かく具体的に分析を進める。第一章では、書くという行為の発生段階である口承から筆記が発生し写本文化が生まれる過程について、ギリシャ・ローマ時代の口承から筆記への移行期を取り上げ、特に“話す”ということと“書く”ということに違いについて焦点を当てる。二章では先に触れた写本から印刷文化への“緩やかな”移行における、形態の変化と内容の変化の関係性について述べる。三章では、現在起こりつつある変化の事例として電子メディアの発生を取り上げ、現状分析とこれから何が起こりうるかについての考察を行う。また、続く第四章において、欧米にくらべて独自の発展段階を踏んだ日本のメディアの変遷について述べる。
「すべての時代は、意味作用の内的外的な構造、手段、関係を含んだシンボル交換の形態を行使している。情報様式の諸段階は次のような形でとりあえず示されるだろう。すなわち、対面し、声に媒介された交換、次に印刷物によって媒介される書き言葉による交換、そして電子メディアによる交換である。もし最初の段階がシンボルの照応によって性格づけられ、二番目の段階が記号の再現=表象によって性格づけられるとしたら、三番目は情報的なシュミュレーションによって性格づけられるだろう。最初の声の段階において、自己は対面関係の全体性に埋め込まれることによって、発話地点として構成されている。二番目の印刷物の段階においては、自己は理性的/想像的自立性における中心化された行使者として構成されている。三番目の電子的段階において、自己は脱中心化され、散乱し、連続的な不確実性の中で多数化されている。」
ライティングは言葉を技術化する方法のうち最も古いものである。現在、書くことは我々にとって完全に内在化され、口頭による伝達とほぼ変わらない“自然さ”を持っているが、それが技術であることは今も変わっていない。 一言でいうなら、テキストという概念の発見は、それまでの音声に頼り、きわめて即時的だったコミュニケーションを空間に固定することを可能にした。しかし、その概念が人間の思考に与えた影響は計り知れない。
「書くことは、三つの技術(書くこと、印刷、コンピューター)のうちで、ある意味で、最も激しい変化をもたらした。書くことが始めたことを、印刷術とコンピュータは継続しているにすぎない。つまり、それは、絶えず動いている音声を、静止した空間に還元し、話される言葉がそこでしか存在できない生きた現実から言葉を引き離すということである。」
記録という意味では、書くことによって何かの情報を残すことは、人類の歴史と比類するほど長い。いわば、人間が人間となる以前、類人猿の時代から壁画という形式である種の情報を書き残すということは行われていたのである。壁画は時代を経るに従って次第に洗練され、記号と呼べるまでに発達したが、記号が声と比類するメディアとなるには表音文字の出現を待たねばならなかった。表音文字の水準からすれば絵文字による伝達は正確さを欠いている。絵文字のそれぞれの要素は、表音文字のそれにくらべて、一つの要素が意味するところがあまりに過剰なのである。絵文字の要素は見るものによって解釈が変わる可能性をもっている。表音文字の“発明”は音声を文字に置き換えることを可能にした。つまり、ようやく“書かれたもの”が声と比類するメディアとなったのである。
最初の表音文字は、紀元前2900年頃メソポタミアとエジプトで栄えた。そこでは象形文字が表音文字の体系に次第にに置き換えられていったのである。シュメール人もエジプト人も、複雑な単語-音節表記を発展させた。こうした表記で用いられる記号は、ある場合は一つの単語全体を表し、ある場合はもっと抽象的に、子音と母音の組み合わせを表した。シュメール人とその後継者は主として石や粘土の上に書き、エジプト人は石や、パピルスというナイルの岸辺に生える葦のような植物から作った、紙に似た素材に書いた。エジプト人は石に象形文字を刻むために碑文様式を発展させたが、他方シュメール人は粘土板に対し使うのに便利な楔形の尖筆を採用し、特徴的な楔形文字を発展させた。エジプト人がパピルスに書いたものは、時代が進むに連れてカーシヴと呼ばれる筆写体になり、やがてギリシャ・ローマに伝えられることになったのである。
古代ギリシャ・ローマ人はパピルスロールの上に文字を記した。古代の書物は巻物であり、パピルスの端を膠で接着したものが使われた。巻物はそれぞれ20から25フィートあり、テキストは巻物の長辺に垂直に、細かい横書きで書かれていた。しかしそこに含まれている情報量は比較的少なく、ホメロスのように長大な作品はいくつかの巻物に分割されて収められねばならなかった。やがて、この巻物は文章を書く上での構造上の単位となり、ギリシャ・ローマの著述家達は“一本の巻物に収まる量”を自分の著作を把握する単位とするようになった。それは、少なくともテキストを生成するという局面において、思考の単位が物理的な制限(ここでは巻物の長さ)によって左右されたことを意味する。(この様な現象は後述するページの概念の発生や、テキストのデジタル化などにおいてしばしば起こっている)
ホメーロスに始まるギリシャ・ローマの文学、とくに韻文は、口承性が非常に強かった。当時文学は読まれるものではなく、語られるものであり、歌われるものであり、そして聴かれるものだったのである。古代ギリシャ語には読まれるものという意味での「文学」という言葉は存在しない。
ホメーロスの作品が純粋に口承のみによって構成されたものかどうかについては「ホメーロス問題」として、諸説紛々あるが、彼の作品が口承を目的としていたことは疑いようのない事実である。元々口承叙事詩であったものがテキスト化されたにしろ、テキストとして成立したものが口承されたにしろ、いずれにしても、そこには口承叙事詩としての特徴が色濃く現れているのを見ることができる。
ひとつは、ホメーロスに見られる定型句、あるいは定型的表現である。ホメーロスにおけるエピテトン(枕詞)を研究したミルマン・パリによれば、「ホメーロスの口承技法は、一詩行のある部分を埋めるための同じ韻律の価値を持つ同じ意味の表現は大体ひとつしかない」これは、叙事詩の語りが高度にシステム化されていたことの現れであろう。つまり、ホメーロス、あるいはそれ以前の口承詩人達は、それまでの叙事詩の伝統によって徐々に培われてきた長短さまざまな定型句を、その場その場の要求に応じて即興的に組み合わせて叙事詩を歌っていたのである。逆に言えば、長大なる叙事詩を半ば即興的に歌うためには、システマティックな語りが必要不可欠であったということであろう。
ギリシャ文学の口承性のもう一つの例は、神話に根ざした高度な比喩や暗示である。そのために、神話の知識のないものにとってはほぼ読みこなすことが不可能なほど、そこでは、神話の内容に関して大胆な省略や比喩が見られる。しかし、詩人達と場や時間を共有していたギリシャの人々にとっては、神話は社会の共通基盤として身近なものであった。神話の人物や物語の一部に言及すれば、それを聴く観客には、その神話のストーリーや、暗示するところは言葉にするまでもなく明らかだったのである。逆に言えば、語るものと聴くものが時間と場を共有するという口承叙事詩の性格上、先ほどの定型句の使用と同じように、神話によってイメージを膨らませることが多用されたのはある意味で必然といえるだろう。
紀元前1世紀、文化の中心がアテーナイからプトレマイオス朝エジプトのアレクサンドリアに移ったことがギリシャ文学に大きな転換をもたらした。正確に言えば、アレクサンドリアに図書館が作られたことによってである。この図書館は文芸、学問の守護神であるムーサイの神殿であるムーセイオンの一部として作られていた。そして、当時、ムーセイオンは一種の学問的研究所としてギリシャ全土から膨大な書物を収集し、分類、校訂を行っていたのである。そして、図書館に収蔵されることで個々の作品は属していた「場」から切り放され、その「場」が持っていた諸々の制約から解放されることになった。
図書館への収蔵は、口承文学に対して保存という概念が生まれたことを意味する。ヘレニズム時代にはポリス社会の解体と共に、ギリシャ文学を支えていた「場」は失われ、作品はムーセイオンに収蔵され、研究の対象となることで、テキストという仮の場を得ることになった。ヘレニズム期には文学作品は特定の文芸サークルに属している人に当てて書かれ、そうしたサークル内で朗読されるようになったのである。 この時期の“作家”は先攻する作品をきわめて緻密に分析し、それを自らの作品に反映させた。その結果、文学がきわめて自覚的になり、また、理解するために、過去のテキストに対する膨大な知識を必要とするようなものへと変質した。それはいわば、口承からテキストへの転換が生んだ変化だったのである。 口承からテキストへという移行は、声という形態からライティングという形態への変化だといえる。その形態の変化はそこに乗せられる内容に大きな影響を与えた。それは話すということと書くということとの違いに起因するものである。
「読み書きのできる人々は、言葉を視覚的空間に並べることができ、そして言葉はその空間の中で存在し続けられると知っている。」
口承と比べるならばテキストのもっとも大きな特徴はその可視性である。書かれた物は話された物と異なり目で見て確認することができる。それまでの口承による語りは前述したようにきわめて即時的で流動的だった。語りは話しての都合や聞き手の興味にしたがって時に中断し脇道にそれ、再び本筋に戻るということを繰り返しながら進み、二度と再現され得ない物として“場”という物に強く依存していた。一方、書かれた物は固定化され痕跡として残る。これは書かれた物が後世に記録として残るという以前に、テキストが生成されるその現場において大きな意味を持った。テキストは口承とは違い、それまで書いてきたものを確認しながら書き進めることができる。また、一度書いた物を読み直し、修正や変更を行い、書き直すことができる(つまり“編集”ができる)。このことによってテキストは語りに比べてきわめて自覚的で理性的な様相を帯びたのである。
書くという行為は頭の中の考えや概念を粘土板やパピルスや紙の上に再構成することであり、そのためには何を如何に書くかということに対してきわめて自覚的にならなければならない。口承によって語られるものは累積的だが、書かれたテキストはきわめて分析的なのである。書くという行為が持つこの性質は、書き手に考えを連続的にまとめるという習慣をもたらし、線形の思考過程を育んだ。つまり、冒頭から考え始め、中心となる本題を提示し、最後に結論を導くという過程である。結果として、口承がベースの伝達がともすれば冗長ないし多弁的になったのに対し、テキストは洗練され論理的なものになった。現在、つまりテクストが主体となった今日の世界では“論理的”という言葉は筋道の通った線形の思考過程を意味するが、その意味では「論理がテキストを生んだ」というよりむしろ「テキストが論理を生んだ」と言えるかもしれない。
写本文化は時代が進むにつれ洗練と発達をつづけたが、紀元2世紀から3世紀にかけてそれまでの巻物に代わってページを持った写本が出現した。ページという概念の発見は、第一に、書く者にとっても読む者にとっても巻物の時と同じように思考の一単位として1ページという新たな枠組みを提供した。
また、ページという概念は情報へのアクセスの容易さという点で大きな可能性を持っていたが、実際にその可能性が効力を発揮するには写本文化の更なる洗練を待たねばならなかった。最初期の書物は現在のものとは視覚的に大きく異なっていた。ページとページは綴じられておらず、表紙もなかった。またほとんど句読点が施されておらず、ページ番号、索引、目次といったものはまだなかった。また、文章中の単語と単語の間の空白もなく、テキストの各行は何十かの文字の羅列であった。テキストから単語を切り出すのは“読む”という行為の一部だったのである。このことは、ある意味で最初期の写本が強い口承性を残していたことの一つの現れと捉えることができる。つまり、音声にならないものはテキストの中には書きこまれなかったのである。
中世においては近代的な意味での“著者”は存在しなかった。つまり、本を著すことによって名声を得る個人というものはいなかったのである。中世において書物を著す人物は、知的な特権階級というよりむしろ職人に近い立場にいたのである。
中世の学者にとって「誰がこの本を書いたか」という質問は、必ずしも「誰がこの本の文章を表したか」ということを意味していない。この質問は作者よりも筆写した書記の名前を聞いているかも知れないのである。実際、修道院などの限られた場所では数世代に渡ってある一人の修道僧の写本が、もてはやされることもあった。
また、印刷が発明される以前には、本というものの完成品と未完成品の区別がはっきりしていなかった。写本文化においては書物というものは不断に書き加えられ注釈を付されるべきものだったのである。言い換えるなら、多くの中世の著述家にとって自らが“書記”であるか“著者”であるかは深い意味を持っていなかったといえる。
人間の思考への影響という観点から見れば、表音文字の発達から写本文化へと続く流れは、テキスト的な思考の発生と発達段階として捉えることができる。つまり、テキストから口承性が失われていく過程であり、線形的な思考の発達の過程である。しかし、上記のように写本文化が本格化した中世においても、書物は内容的に口承性を強く残していた。テキスト的思考が真に成熟するのは活版印刷の登場を待たねばならなかったのである。
活版印刷技術の発明は、ライティングテクノロジーという観点から言えば、なんら革命的なものではなかった。印刷技術の発明前も、その後も人々は基本的に紙ないしそれに類するものに文字を書き付けていたのである。しかし、印刷技術は間接的にライティングに対して無視できない多くの影響を与えている。ここでは、印刷技術がいかにライティングを変化をさせ、さらに、その変化が人間の思考にどんな影響を与えたかについて考察する。
貴族の血筋を引くマインツの金細工師ヨハン・ゲンスフライシュ・ツウム・グーテンベルグ(1394-1399までの間に生まれた)はシュトラスブルクに政治亡命中の1440年頃から新しい印刷技術の実験にとりかかったといわれている。彼は1444-1448年の間にマインツに戻ると、1450年までに自分の発明を完成し、商業的に利用できるレベルにまで高めた。このころグーテンベルグはマインツの弁護士ヨハネス・フストから二度に渡って借金をしているが、後にこの借金が原因で自ら発明した印刷機と活字を失うことになった。やがて、1460年頃には、彼は印刷機の制作を断念してしまった(これは視力がなくなってきたためだといわれている)。そして、彼は1468年2月3日に死去、フランシスコ修道協会に埋葬された。
いわゆる“グーテンベルグ革命”と呼ばれるものがなんだったのか、一言で言い表すのは非常に困難である。一般にグーテンベルグは印刷の父として、あたかも始めて本を印刷したかのように考えられているが、彼の功績は“機械を使った図書制作”にあるのではない。すくなくとも、彼の登場以前から本は印刷されていたし、当時彼以外にも、印刷機改良の努力は行われていた。グーテンベルグが行ったのはそれまで木製だったものを金属に変え、版木を一本一本の文字活字に変えたこと、また、金属活字に適したインクを発明したことである。このことによって変わったのは書物そのものではなかった。実際、初期の活字印刷本と当時の手写本はほとんど見分けがつかない。いわゆる彼の“金属可動活字”は本の製造過程に大きな変化をもたらし、その変化は書物の大量生産を可能にしたのである。
写本時代から印刷世代への移行は革命的と言うよりもむしろスムーズに行われた。活版印刷が登場したとき当時の印刷技術者達は特別な文化がそれによって開始されたとは考えなかったのである。それはあくまでもこれまでの手写本を効率よく安価に作れる手段以外の何者でもなかったのである。
「四十二行聖書はグーテンベルグの印刷による偉大な書物であるが、今日の我々が見ても、これが新しいテクノロジーの性急な試みの結果生まれた物であるとは思えない。不細工にできているとか、不確かな点があるとか言うことが一向にないのだ。もっとも早い時期の揺藍本(インクナブラ)が、既にして完成された技術を示している」
しかし、印刷技術が浸透し始め、本が大量に“生産”されるようになるとまもなく、同業者同士の競争が起こった。印刷技術は書物を商業の世界に引き込んだのである。この印刷業者同士の競争は、本というメディアを改良する契機となった。この時代、印刷業者は自分たちの印刷する書物が他の印刷業者の書物に比べて、美しいだけでなく、いかに読みやすく便利であるかということを盛んに宣伝したのである。欄外見出し、脚注、目次、上付き数字、文献リスト等、現在の書物に見られる多くのテクニックはこの競争の中で生まれ、洗練されてきたのである。
第一に、グーテンベルグ革命は流通革命だった。つまり、これまでの手写本がもっと安価に効率よく作れるようになったことで、書物そのものの数が増えたのである。1450年から50年間で作られた印刷されたインクナブラは2000万冊とも言われている。しかし、この流通革命はただちに新しい文学や思想の発生に寄与したわけではなく、むしろ、それまでの手写本が培ってきた文化を量的に強化する方向で発達したのである。
「黎明期の印刷者は、自分たちが作る本を良質の手写本と同じにしようとしたのである。彼らは手写本と同じ肉厚の字体、同じ連字や略字を用い、ページを同じようにレイアウトした。自分たちが手にしている新しいテクノロジーは別のライティング・スペースをもたらすことができるのだ、つまりもっと細い字体を使い、略字を少なくし、インクの使用量を減らせばもっと読みやすくなるのだ、とかれらが気づくまでに二、三世代が経過したのである」
本の数が増えた、あるいは同じ本が大量に出回るようになったという事実はテキストというものにいくつかの新しい特徴をつけ加えた。
一つは標準版というものの出現である。それまでの手写本は同じ物は一冊としてなかった。確かに写された物として、内容的には同じ物と呼べるものだったが、本文とほぼ同じ量、もしくはそれを上回る注釈が施され、事実上一冊一冊が異なる書物だった。また、本を写す際、ひとりの人間が原本を読み上げ、それを何人かが書き留めるという形式で写本が行われていたため、単語の欠落や同音異義語の間違いなどが少なくなく、しかも当然のことながら間違いの箇所も一冊一冊違っていた。さらにいえば、ある同一の作品の二つの手写本は、たとえそれが同じ口述を書き留めたものであっても、写本それぞれの頁が一致することさえ殆どなかったのである。
印刷によって同じ本が大量に生まれたということはたんに多くの人々の手に本が渡ったという以上の意味を持っている。少なくとも、正確な索引、注記、相互参照、引用等は活版印刷による正確さがなければ生まれ得なかったものである。エリザベス・エイゼンステインは「印刷革命」の中で標準化の一つの現れとして正誤表の出現をあげている。
「確かに初期の技術では、現代の学者におなじみの「標準版」(スタンダード・エディション)発行は不可能だった。異本が急増し、正誤表をきりなしに出さなければならなかった。しかしエラスムスやベラルミーノは正誤表を出すことができたが、ヒエロニムスやアルクインはできなかったということもやはり事実である。正誤表の出版行為そのものが、テクストの誤りの箇所を正確に指示し、かつその情報を散在する読者に同時に伝えるという新しい能力の証明になった。それは標準化のもたらした効果をむしろ適切に示している。」 同じ書物が増えたことは、これまでと比べてテクストが後世に残る可能性をより増やす結果になった。ある書物が唯一無二の物である、もしくは非常に稀少な物であるという事実は、ある意味でその時代の書物が情報の保存という意味でいかに脆弱な物だったかを示している。
「手書きの記録は人の手で触れられ読まれる限り、磨滅し損耗してしまう。また保管しておけば湿気や虫、泥棒、火事の害を受けやすい。どのように立派な記録保管所に収められ、守られようとも、いずれは散逸する運命だった。情報を書かれた文字によって世代から世代へと伝達するとなれば、流散するテクストや滅失する写本がその搬送手段となるほかなかった。」
全く同じ内容の書物の数が増えたことによって、紙の使用や本の小型化などによって個々の書物の耐久性が落ちたにも関わらず、可能性という意味で、書物の情報としての耐久性は逆に上がったのである。
活版印刷はその成熟と共に書物に直接いくつかの形態の変化をもたらした。この形態の変化がもたらしたもののうちもっとも大きかったのは、“読み易さ”である。印刷技術の向上により連字、略字がほとんどなくなり、活字は標準化され、より小さい文字で印刷することが可能になった。そして、やがて本そのものが小さくなっていったのである。この本の小型化はやがて、個人の蔵書というものを可能にした。
更に、学問という立場から言えば、まったく同じ本を大量に複製できるということ、あるいは“標準版”の存在が新しい書物の形を産んだ。そのひとつの例は辞書である。写本時代にも辞書に類するものはあるにはあったが意味の統一という点では個人編纂の域を出なかったし、版を重ねていくという今日的な方法でその語彙を増やしていくことは不可能に近かったのである。活版印刷技術によって生まれた標準的な辞書の存在が、文芸や学問の世界において語彙の拡大という意味で果たした役割は非常に大きい。
同一内容の書物の数が増え、本の小型化により個人の蔵書が可能になり、さらに文字そのものが読み易くなったという事実が書物の内容自体までも変えてしまうにはさらに時間がかかった。だが、その変化は徐々に起こり、まず知のあり方の変化として現れたのである。
「写字生の時代には字を覚えることは、徒弟制度、口頭伝達、記憶を補助する特殊な工夫と相伴っていた。ところが印刷術の出現以後は書かれた情報の伝達の方がはるかに効率的になった。新しく独学するチャンスを得て特をしたのは大学の外の職人ばかりではなかった。頭の良い大学生がその先生の理解を超えるチャンスを得たこともそれに劣らず重要である。才能ある学生は、外国語とか学問的技能を体得するのに、特定の先生の足元に坐っている必要がなくなった。そうするかわりに、時には先生の目を盗んでこっそり本を手に入れることによって、ひとりで手早く専門的知識を獲得することができた。・・・読書による学習が新たな重要性をもったことで、記憶を助ける手段の役割が減ってしまった。何か公式や処方を保存しておくのに、もはや韻文や抑揚文は必要がない。集団記憶の本質が変わったのである。」
それまで、自らの師が著した書物を一字一字写し取り、それに注釈や解釈を加えることが学問の一部をなしていた時代から、多くの本を目の前にしてそれらを相互参照する時代が来たのである。ある意味でこれは学問の主体が会話からテキストに移行したことを意味する。写本時代において、学問とはすなわち会話によっておこなわれるものであった。テキストはあくまでその補助的手段に過ぎなかったのである。しかし、印刷時代が成熟するにつれ、それまで、集団で朗読されるものであった 書物は、小型化され“黙読”されるようになったのである。確かに、ごく一部で中世から黙読は行われていたが、印刷革命以後それはきわめて一般的なものになった。本が黙読されることは集団に属していた本というものが個人の手に渡ったことを意味する。やがて、テキストと会話の関係は逆転し、やがて学問が書物を中心にして行われるようになった。学者は書物から学び、書物を著すために研究を行うようになったのである。
この、書物が個人の手に渡り“黙読”されるようになったことは、テキストの論理性を更に強化することになった。一人が朗読し、それを多くの人間が聞くという形式の学問では、到底なし得なかった高度な思弁性をテキストが獲得したのである。印刷革命以後、学術関係のテキストはきわめて論理化され、分析的になり、何度も読み返されることを前提としたものに変質した。
また、印刷技術者達がもたらした新しいテクニック、きちんと番号を付された頁、句読点、段落間の空白、欄外見出し、索引、目次などもテキストの論理化に大きな役割を果たした。例えば、手写本時代にも索引や目次を付ける試みはわずかながら行われてはいたが、手写本のページ割りが一冊一冊異なっていたため、実際に有用なものとなるには活版印刷の出現を待たなければならなかった。索引や目次が登場したことで書物の中に収められた情報にアクセスすることが飛躍的に効率的になったのである。また、目次は書物に接する者に対して、その書物の持つ論理構造をこれまでにない明確さで示すことになったのである。やがて、書物の論理構造が強化されることで書物というものの概念に変化が生じた。中世において写本というものが際限なく改編され注釈される完成という概念を持たない開かれたものであったのに対して、多くの場合、印刷された書物は完成されたものとして捉えられるようになったのである。
前章で述べたように印刷以前の書物には作者というものは存在しなかった。注釈者と作者の境界線は限りなく曖昧なものだったのである。“著者”という概念は印刷技術が生んだといっても過言ではない。その過程の中で大きな役割を果たしたものの一つに標題紙の出現があげられる。
スタンリ・モリソンは彼の『活版印刷技術の基本原則』の中で「印刷術史とは、その大半が標題紙の歴史である」と述べている。標題紙の導入は写本から印刷への転換によって生まれた、もっとも顕著な進歩の一つといえる。例えばアレクサンドリアのプトレマイオス図書館はテキストの書き始めの単語ないし語句で目録を取っていた。中世になっても、書物に対して適切な書名や著者名を与えるということには依然として関心が示されていなかった。そのために、異なる人物によって書かれた文章が区別されることなく一つの写本の中に入れられてしまうことがしばしば起こったのである。
標題紙の起源は写字生が写本の一番最後に自分の名前、筆写の完了日、感謝の言葉等を書きこんでいたことに習って印刷業者が始めたもので、書名や著者名を記す為の物ではなかった。確かに書名が書かれることはあったが、この時代にはそれは印刷業者が便宜的につけたものであって、著者が自らつけたものではなかったのである。しかし、このような標題紙に頻繁に触れることは、書物を書くものにとっても読むものにとっても、著者というものの存在を強く印象づけたであろうことは想像に難くない。
「自己の利益のための宣伝係として、初期の印刷業者は書籍一覧表や回報やチラシを発行した。また、本の最初の頁に会社の名前、紋章、それに店の住所を入れた。実のところ、こういう表題紙の使い方は、写本の作法をひっくり返す意味を持っている。彼らは自分の名前を最初においたが、写本の奥付は最後にあった。彼らはまた、出版する作品の著者や画家にも新しい宣伝技術を適用し、これによって個人の名声に新しい形を与えた。」
また、テキストの論理化が生んだ書物の完結性は、一人の人間が書物を著すという構造をより強化し、著者の発生のもう一つの大きな原因となったのである。 著者の発生は、逆に言えば読者という存在が出現したことを意味する。写本時代は読むことはつまりその本に対して書き込みや注釈をすることを意味していた。しかし印刷文化の成熟により、完成した書物という概念が生まれたことで、一人の著者と数多くの読者という図式が現れたのである。
上記のように、活版印刷の導入は、当初、革命的と呼べるものではなかった。その影響は徐々に進行し、人々はそれに対してほとんど無自覚だったのである。印刷文化は、さらに書き手の思考の線形性を強化し、写本が終わりのない開かれたものであったのに対して、完結した書物という形式を生んだ。また、著者と読者の発生は、書くことと読まれることの分化という意味で、著者に対して自らのテキストが読まれるということを強く意識させた事は想像に難くない。このことは書き手の精神に大きな影響を与えたと思われる。
テキストのデジタル化という現象は、今まさに進行中であり、その現象が引き起こした、あるいは引き起こすであろう変化は社会全般に及んでいる。この変化は書くという行為そのものに関する変化としては、粘土板やパピルス、紙の発明、ひいては表音文字の発明に匹敵するものである可能性がある。ここでは、テキストのデジタル化が何を意味し、人間の思考に対してどんな影響を与え得るのかについて考察する。
アルファベットを文字文化の基本としている国々は多くの局面において writing のデジタル化は筆記からタイプライティングへ、そしてワードプロセッサーへというプロセスをたどった。
1874年、レミントン親子が開発した、いわゆるレミントン・タイプライターは、オフィスワークにある種の革命をもたらしたといっても過言ではない。印刷機に頼ることなく活字の文字を高速に打ち出すことができるこの機械は19世紀後半の事務職の機械化に大きく貢献した。一般家庭への普及も早く、ドイツの思想家F・ニーチェは1881年にタイプライターを購入している。しかし、一方でタイプライターは登場してから、人間にとって神聖な“書く”という行為を冒涜する機械として批判されてきた。ハイデッガーはタイプライターは言葉を破壊し、書くということを手すなわち言葉の本質領域から奪い去る、とまで主張したといわれる。このハイデッガーの主張が口承からテキストへの移行時において、テキストに対してなされた批判と非常に似ているのは注目に値する。
タイプライターの利点とは第一にその速度であった。ペンを使って文字を一字一字紙の上に書き記してゆくという方法に代わって、キーを叩いてリアルタイムで活字を印字する方法が発明されたことで、文字を書くという行為そのものの速度と効率が飛躍的に上がったのである。手慣れたタイピストならば一分間に80から100語もの文字を打ち出すことができる。これは声による語りのそれに匹敵するものである。この速度はテキストを作成する者にとって、紙とペンというメディアがもっていた“摩擦力”を低減した。つまり、タイプライターは書くという行為がもっていた肉体的苦痛から書き手を解放し、ライティングの速度を思考の速度にさらに近づけたといえる。
しかし、後に出現するワードプロセッサーに比べると、タイプライターはスピードという意味では革命的だったが、書くという行為としてみるならば、依然としてそのリニアリティを保持していた。つまり、断片的な思考をまとめあげるというプロセスを実際のライティングに入る前にすましておく必要がある。タイプライターは以前として“清書”機械なのである。
ワードプロセッシングという言葉自体は、1962年にIBM が自社のタイプライターにつけたブランド名が起源になっている。「MTST」と呼ばれたこの形式のワードプロセッサーはテキストを磁気テープに保存することができ、文書の更新の際、電子的に記憶されている頁を呼び出すことができた。まだ、この段階のワードプロセッサーは今日のそれが持つようなテキスト処理の高度な柔軟性を有してはいなかったが、この新しい形のタイプライターがそれまで全く別に発達していた電子計算機技術と結びついて今日見られるようなテキスト処理を行えるようになるには、そう長い時間はかからなかったのである。
タイプライターがライティングのテクノロジーのうち、何を使って書くか、という部分の変化であったとすれば、テキストのデジタル化は何の上に書くかという部分に関する変化であった。テキストのデジタル化が意味するのは、これまでの紙に代わって、シリコンチップや磁気ディスクといった記憶媒体にテキストが書き込まれるようになったということである。また、デジタルテキストはこれまでの文字に代わって、スイッチのオンとオフからなる電気信号によって表現されるようになった。そのことによって、デジタルテキストはこれまでのテキストメディアが持ち得なかった柔軟性を獲得したのである。
注意すべきはデジタルテキストが書き込まれるのはコンピュータのモニターなどの表示装置の上ではない、という点である。モニターに表示されたテキストはこれまでのメディア、つまり紙を模倣しているに過ぎない。技術者達はデジタルテキストをハンドリングする際にもっともありふれていて、もっとも分かり易いメタファーを採用したのである。表示装置に現れたテキストはデジタルテキストが取りうる多くの形態の一つでしかない。無論、デジタルテキストはこれまでの紙というメディアにテキストを打ち出すこともできる。だが、それは、これまでとは異なり、可能な多くの形態の一つでしかないのである。
テキストのデジタル化がもたらしたものは、第一に編集に関わる変化である。注意しなければならないのは、ライティングの部分に関してはタイプライターによるライティングとほとんど変化していないという点である。デジタル化されたライティングにおいても書き手は一文字一文字キーを叩いて文字を打ち込んでいることに違いはない。 タイプライターとワードプロセッサーにおいてもっとも違っているのは修正や変更が瞬時に行え、しかもそれが痕跡を残さないという点である。このことは結果的に、ライティングの速度と思考の速度をさらに縮めることになった。
ワードプロセッサーの書き手はテキストを書きながら不断に修正や変更をいれる。つまり、テキストのデジタル化によってライティングと編集がほぼ同時進行で行えるようになったのである。例えば、ライティングと編集の同時進行が可能になったことによって“清書”という概念はほぼ消失した。書き手は、ほんの数行のアイディアや断片的なメモの集積をそのまま発展させることで完成されたテキストを作ることができるようになったのである。
また、デジタルテキストは印刷に比べて複製を作ることが容易であるという特徴を持っている。写本は言うに及ばず、タイプライターでもテキストをコピーするためにはもう一度キーボードを叩いて打ち直す必要があるし、活版印刷も複製を効率化したとはいえ、複製を取るには活字を組み直さなければならない。しかし、ワードプロセッサーはたとえ数百ページにわたるテキストでさえ全てコピーするのに秒単位の時間しかかからないのである。
デジタル化されたテキストはそれまでの紙とペンというメディアから解放されることで、ある種の流動性を獲得した。基本的に紙やそれに類する物に記されたテキストは変更することが出来ない。たとえ変更することが出来たとしても、その変更の痕跡を消し去ることは不可能に近い。ワードプロッセッサーの出現以前は“書かれた物”とは固定された物であり基本的に変化しない物だったのである。その固定性は先に述べたように思考の線形化を生んだ。 しかし、デジタル化されたテキストは変更や修正、あるいは単語や文章の入れ替えといったことが痕跡を残さず容易に行うことができる。そしてその事によって、テキストは少なくともその生成の段階で、それまでのリニアリティから解放されたのである。現在、ワードプロセッサーを使うものにとって、テキストは必ずしも冒頭から結論に向かってリニアに書かれるべきものではない(無論そうすることもできるが)。思いついたことを思いついた順番でキーボードに打ち込み、それを“編集”し直すことで一連のテキストを生成することができるのである。 しかし、その反面この流動性は、これまでのテキストが持っていた固定性が失われ、テキストが不安定な移ろいやすい存在になったことを意味する。例えば、デジタルテキストは非-物質的であるがゆえに一瞬で消滅する可能性がある。また、変更が痕跡を残さないと言う事実はテキストのオリジナリティというものを脅かす可能性を秘めている。究極的にいえばデジタルテキストにオリジナルというものは存在しない。あるのは無数のコピーだけなのである。たとえその文章の作者であっても、シリコンチップ上の電気信号を直接手を触れることは出来ないのだ。ワードプロセッサーのモニターや紙の上に印刷されたものはその電気信号のコピーにすぎないのである。確かに、プログラム的にオリジナルとコピーとを区別してやることはできるかも知れないが、人の思考に対する影響という点で考えるならば、テキストが、変更が痕跡を残さず、一瞬にして消え去る可能性があるものに変貌したという事実は無視できるものではない。
デジタルテキストの流動性が人間の思考にいかなる影響を与えるかについては、はっきりとした事例を見出すことは今の時点では困難だが、デジタルテキスト以前のテキストが持っていた固定性とリニアリティが、ある意味で思考の線形化を促したことを考えれば、この流動性が思考の形態に大きな影響を与えることは十分に考えられる。デジタルテキストを使用する者はもはやテキストが固定的で普遍のものではないことを知っているのである。
デジタル テキストの流動性は流通に関しても大きな変化をもたらした。端的に言えば、デジタルテキストが電気信号に置き換えられたということは、テキストが紙やそれに類する物理的制約から解放されたことを意味する。テキストがデジタル化する以前は、基本的にテキストは紙(もしくはそれに類するもの)によって流通させる他なかった。これは、テキストを編集、印刷するために活字に組み直したりという作業を行う度に、あるいは流通ルートに載せる度に、紙の上に筆写ないし、印刷する必要があることを意味している。 デジタルテキストがスイッチのオン/オフ情報、つまり電気信号で表されるという事実は、それを電話回線や通信に乗せて流通することができるという可能性を秘めている。それまで、物理的な速度、つまり人の歩く速度や、その他の交通手段の速度に依存していたテキストの流通がまさに光の速度で行うことができるようになったのである。
また、書物の執筆のみならず、それに付随する出版の工程がデジタル化されることで、書物を出版することそのものが効率化された。DTP(Desk Top Publishing)と呼ばれるこのシステムは編集や印刷の工程を全く同じデータを使い回すことで行い、これまでの出版工程に比べて速度的にも効率的にも格段に向上している。このDTP技術の発達によって、活版印刷によって分業化、工業化が進んだ出版分野において、再び少人数による工房的な制作も行われるようになってきている。
デジタルテキストを表現する、シリコンチップの上のスイッチのオンオフ情報は二進数によるテキストによって表現され記憶、保存される。この二進数によるテキスト表現はコンピューターによる高速な処理を可能にする。 このコンピューターによる高速な処理によって付加されたテキストの新しい属性の一つに、文書検索システムがあげられる。全ての文字がコード化されたデジタルテキスト上ではある単語をテキスト中から発見するためにその文章を最初から読んでいく必要はない。たとえ、数千頁に及ぶ膨大なテキストの中から目的の単語を探し出すのに必要なのは検索用のプログラムにその単語を打ち込んでやることである。コンピューターによる文書検索は人間の手で行うよりはるかに高速で効率的に目的の文字列を探し出すことができる。
デジタルテキストの持つ流動性は先に述べた文章を生成する局面でのリニアリティからテキストを解放するに留まらず、テキストを読むという局面においても非線形的なプレゼンテーションを可能にした。このテキストの新しい表し方は、ハイパーテキスト(hypertext)と呼ばれている。通常の文章は、一本の線のように、文字列がつながっていて、始めから順に読み進む。しかし、小さな項目が網の目のようにつながった形の文章ではそれらの項目の間を自由にジャンプしながら読み進めることができる。このような構造の文書をコンピューター上で実現したのがハイパーテキストである。アイディアは1945年にヴァネバー・ブッシュが出していた。具体化はテッド・ネルソンによって50年に始まったが、最近になって本格的なものがいくつも現れ始めた。例えば美術館情報や外国語教材、シュミレーションゲームなどがハイパーテキストの形でソフト化されている。また、世界的なコンピューターネットワークであるインターネット上でWWW(World Wide Web)と呼ばれるサービスがハイパーテキストの概念を実現している。
ハイパーテキストという新しいテキストの提示の仕方は、非線形的なテキストを書くというこれまでの線形的なライティングとは異なる目標を書くという行為に付加することになる。これまでの章や段落、ページ、アウトラインといった概念ではなく、リンク(接続)やノード(結節)、ネットワーク、トレール(経路)といった概念によってハイパーテキストが構築される以上、ハイパーテキストを書くという行為は従来のテキストを書くという行為とは全く違うものになるはずである。
ハイパーテキストを書くという行為が未だ一般化していない以上、その影響を語ることは単なる推測の域をでない。しかし、ハイパーテキストが十分に浸透し、人々の精神の中に内在化され、従来のテキストと比類するものになったとすれば、その時、人間の精神構造は以前と比べ大きく変化しているであろう事は容易に想像できる。また現在、ハイパーテキストの概念を知る者は、少なくとももはやテキストが線形的である必要はないということを知っている。思考に選択肢が生まれたということを考えれば、そのことが彼/彼女の精神構造に少なからず影響を与えている可能性は十分にある。
日本におけるメディアの変遷は欧米のそれとは異なる独自の発展段階を踏んだ。それは日本のメディアの大部分が欧米ないし大陸からの導入された技術に対して、日本語という特殊な言語を適用するという方法によって生まれたものであることに起因している。
江戸時代の日本において主流だったのは木版印刷であった。銅活字は文禄の役(1593)の際朝鮮から伝わり、後に徳川家康が使用しているものの一般には普及してはいなかった。木版印刷は木の版面に文字や絵を刻み込み、バレンで刷るという方法を採っていた。木版は手書きに比べれば効率的な方法ではあったが、多くの情報を盛ることは出来ないし、保存の面からも問題があった。
活版印刷が導入される前までは、日本においては木版と筆写がほぼ共存状態にあった。ただ、木版によるものはやはり稀少であり、その蔵書は名主層に限られていた。多くの人々は書物を得るために、それを所有する家を探し、さらに自らの手で、一字一字下記写す作業が必要だったのである。
このような状況は活版印刷導入によって一新されたわけではなかった。新聞においては明治3〜5年頃から『横浜毎日新聞』や『東京日日新聞』などに活版印刷が用いられ始めたが、図書の活字印刷は明治10年前後まで待たねばならなかった。
やがて、活版印刷の普及と共に欧米と同じく日本においても、その導入は第一に量的変化をもたらした。木版時代に比べて書物自体の数が飛躍的に増えたのである。ただ、日本においては印刷技術は欧米に比べ十年にも満たない期間で急速に浸透したため、その影響の表れ方も顕著であった。この書物の量的変化はまず本というものの価値観に大きな影響を与えた。明治20〜30年代になると印刷技術の向上による生産力の増大によって出版物の絶対量が増え、木版時代に比べて書物の入手は容易になり、その希少性が失われていった。書物の大量生産は、聖典的存在だった書物を商品のレベルに引き下げたのである。明治33年のある少年雑誌上の読書論にはこの状況を表すような一文が載せられている。
「昔は至つて書物が乏しかったと云ふ事が知れる。然るに、明治の今日は何うかと云へば、全で当時の反対で、都会の少年は言ふまでもなく、如何なる田舎の少年でも、寧ろ小もつの多いのに困ると云ふやうな有様である。我々が試に少年の人等の室内に入つてみると、其の机の側には、中々一冊や二冊の書物ではなくて、学校の教科書や、雑誌や、借りてきた伝記類など、様々な書物が、必らず沢山に積んである。」 また、欧米と同じく印刷技術の発達によって書物の形式自体も変化した。活字体が採用され、段落分け、改行、目次、句読点など読み易さという点で急速に改良が進められたのである。江戸時代の木版本は欧米中世の手写本がそうだったように音読されることを前提としてこれらの読み易さに対する配慮は全くと言っていいほど為されていなかった。結果として、これらの版面上の工夫は十年にも満たない期間で一般化していったが、その一方で読みにくい江戸時代の木版本を駆逐してしまう結果となった。書物の数が増え読みやすくなったことで、それまでいわば集団に属していた書物が個人に属するものとなり、黙読されるようになった。
この風潮は読書習慣そのものにも影響を与えた。すなわち、書物が手に入らなかった木版本の時代の「読書百遍」の習慣が廃れ、より数多くの本を広く浅く読む消費的な読書法が一般的になったのである。この読書習慣の変化を決定的にしたのは消費されることを目的とした出版の出現、つまり日刊新聞と雑誌の発行であった。活版印刷が導入されたことでテキストが作成されてから読者のもとに届くまでの時間が大幅に短縮され、日々の事件をリアルタイムで活字にし新聞として発行したり、作家の新作を月単位で発表することが可能になったのである。このことは同時にテキストを作る者つまり作家を職業として成り立たせることをも意味する。日本においても欧米と同じく“著者”は印刷技術が創り出したのである。 日本における活字文化の導入という現象は上記のように、書物の量的増加による価値観の変化、書物の外見的変化による読み易さの向上、読書習慣の発生とそれによる著者の発生など。欧米のいわゆるグーテンベルグ革命と非常によく似た結果を生んでいる。しかし、日本の状況が欧米と大きく異なっていた点は、それらの変化が数十年という急速な変化だったことである。結果として辿った道は欧米と同じだったにも関わらず、日本においてはこれらの変化に対して人々が非常に自覚的であった。当時の雑誌などでは大衆の読書習慣の変化に対する議論が数多く行われ、変化に対して批判的な風潮も少なからずあったし、また、国家レベルで国民の読書習慣に介入するという動きさえ実際にあったのである。
明治40年前後、日露戦争が文明国の非文明国に対する勝利と位置づけられたこと、大逆事件の影響による思想問題への関心の高まりなどを受け、中でも青年層や学生の読書のありかたが教育上の問題として大きな関心の的となったのである。実際には、国民の読書力の底上げ、学生生徒の読書内容の監視、などの政策が採られている。
前者の読書力の強化に関しては公共図書館の充実という形で実行され、地方改良運動の一環として全国に図書館や戦勝記念文庫の設置が大々的に行われた。しかし、これらの図書館は概して貧弱で形式的なものが多く、内容的にも魅力に欠けていたため利用者は少なく大きな効果は上がらなかった。後者の読書内容に関する監視という面では、特に大逆事件後の明治43年頃から、自然主義や社会主義思想の青少年への影響を防止する目的で、内務省と文部省による図書の取り締まりが本格化し、同時に課外図書の実態調査や奨励図書・禁止図書リストの作成なども行われた。
日本語のライティングにおける電子化は英語圏におけるそれとは大きく異なる。欧米諸国において電子化が手書きからタイプライター、そしてワードプロセッサーというプロセスをたどったのにたいして、日本においては手書きから直接ワードプロセッサーに移行した。これは、ひらがな、カタカナ、漢字など数種類の文字を使い分ける日本語の表記上の特徴と、そして何より数千数万に及ぶ漢字を使わなければならないということが大きく影響を与えている。
和文タイプライターというものも存在したが、英語圏において文字セットが50程度の活字を用意すればいいのに対して、日本語は最低でも3000字以上の文字セットを用意しなければならず、文書作成の効率化という意味では欧米ほどには普及しなかった。日本においてテキストがデジタル化される上で最初に越えなければならなかったのは、この漢字をどうやって扱うかという問題だったのである。
コンピューターによるかな漢字変換システムの研究は1970年代に本格化したが、当時のシステムは文節単位で“分かち書き”されたかなの文章を文法処理で漢字混じり文に変換するもので、コストも高く、効率の面から言っても、実用化には不向きであった。
現在、日本で使用されているかな漢字変換システムは、ひらがなもしくはローマ字で入力された文字に対して、同音の漢字リストを使用頻度順に表示しその中から書き手が目的の文字を選択するという方法を採っている。この方法、つまり、漢字変換を書き手の手にゆだねるという方法によって限られたキー入力で数万にも及ぶ漢字をコントロールできるようになったのである。
このシステムを初めて導入した日本初のワードプロセッサー、JW-10は昭和53年(1978)9月に東芝より発表され、同12月にその量産機が発売された。価格は630万円、重量は220キロあった。その後、日本語ワードプロセッサーは急速に発達し、更なる変換の高速化と多機能化、そして小型化が推進され、80年代の後半にはオフィスだけでなく一般家庭にも普及することになった。
日本においてワードプロセッサーを使う者が、欧米における評価と同じく編集の容易さを述べるのと同時に、漢字の入力の容易さについて述べることは、思考への影響を考えると無視できる問題ではない。漢字を使用する文字システムは手書きによって書かれる場合、単純に記号化された欧米のアルファベットよりも肉体的苦痛が大きい。紙とペンの“摩擦力”の低減という意味では、日本語のデジタル化は欧米のそれに比べてより大きい影響を与えているといえるだろう。
また、欧米のワードプロセッサーがある意味では手書きの場合と同じく一文字一文字直接入力されているのに比べ、日本のワードプロセッサーは漢字を打ち込む度に“変換”という操作が入る。この変換という操作はこれまでのライティングには見られなかった操作であり、少なからず書き手の思考や日本語そのものの表記に対して影響を与えている可能性がある。
現在、テキストのデジタル化という新しい変化の渦中にあって、多くのメディア論が提示されているが、その多くが変化の技術的側面を取り上げ、デジタルテキストがいかに革新的でこれまでのメディアと異なっているかを強調している。しかし、これまで見てきたように、技術そのものではなくその影響力という点から見るならば、基本的にその変化は全てを一新するわけではなく既存の技術を応用し拡張する方向で進む。テキストのデジタル化と言っても、テキストのプレゼンテーションとしては一つ一つに語を分け、文字に分けて活字にし、その組み合わせをテキストにしてゆくという活字文化のシステムをそのまま継承しているし、ライティングの面にしても分析的に見るなら従来、メモ書きの上や頭の中で行われていた編集と、ライティングの操作をリアルタイムに切り替えながら行っているにすぎない。根本的な部分、人間の言語活動という観点で見るならば、変化した部分よりも数千年前に獲得したものをそのまま継承している要素の方がはるかに多いと言える。
先にも述べたようにライティングというのは人間という種が生来からもっている能力ではない。あくまで言葉を空間に固定するための技術に過ぎないのである。そして、さらに言えば、殆ど全ての場合において、技術とは革新され、旧来のものが新しく現れたものに取って変わるという性質のものではなく、旧来のものを継承し発展させるという重層的なプロセスをたどる。それは、これまで見てきたように、ライティングテクノロジーも例外ではないのである。その意味では、デジタル文化が世界を全く根底から変えてしまうという未来論には疑問の余地があるし、少なくとも広く言われているように一夜にして世界を変えてしまうことなどあり得ないのではないだろうか。
しかし、一方で技術は人間の社会生活や思考活動に対して多大なる影響力を持っている。そしてより重要なのは、技術の変化による影響は多くの場合無意識的なものである、という事実である。特に、その技術が人間の精神に深く内在化され、無意識的に行われている場合、その影響はほとんど意識されることがない。ライティングテクノロジーはその典型である。我々は普段、書くという行為をあたかも話すことと同じ事のように自然に行い、それが紙やペン、あるいはコンピューターといったものによって可能になっている技術であることを忘れている。その技術が重層的に徐々に変化するとき、我々はその影響を意識することができるだろうか。
数千年にわたるライティングテクノロジーの変遷を通じて、人間が得ることができる情報量は幾何級数的に増えてきた。現在、コンピューターを通じて我々個人がアクセスできる情報の量はこれまでにない膨大な量である。しかし、人間の情報処理能力には明らかに限界があり、時間には限りがある。入ってくる情報量がその限界を上回ったとき、どこかで、何を捨てて何を拾うのかという選択がなされなければならない。我々はその選択をいかに行っているのか、あるいは、いかに行うべきなのか、今一度、検証する必要があるのではないだろうか。
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