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ロケのこと
その1ー韓国・済州島

去年の春、済州島の小さな民俗村を訪れた時のこと。

本隊から離れて、一人で虫の音を録っていた。
一週間のロケも終盤、疲労とストレスはピークに達していた。
今日はこれを録ったら帰れる。町まであのひどく揺れるバスで、一時間は眠れるだろう。
春の盛りだというのにひどく肌寒い。

月で淡くにじんだ闇の中、どこまでも続く石垣。草の匂い。
ヘッドフォン越しに聴く知らない国の夜。

そこへおばあさんが通りかかった。ゆっくりした足どり。散歩だろうが、音をとるには邪魔だ。
少しいらいらしながら彼女の姿が見えなくなるのを待った。

青く光るDATのディスプレイをにらむ。1分、1分半。
撮影隊の出発時間が迫っていた。ロケバスに乗り損ねたら、自力で帰る手段はない。
あと3分まわしたら終わりにしよう。
あと2分半。

ふいにヘッドフォンに足音が飛び込んできた。びくっと顔を上げる。
さっきのおばあさんだった。
早く通り過ぎてくれ、と視線をそらして待つ。また5分間やりなおしか。

彼女が私の目の前で立ち止まった。そして言った。よどみのない日本語で。
「日本人か。あんた、うちと一緒に行こう」
びっくりした。日本語にも驚いたが、彼女が話しかけてきたこと、それ自体に驚いた。
「こんな遅くにこんなところで、一人でいるのはよくない。うちといっしょに帰ろう」

ただ音を録っているのだと説明したが、上手く伝わらない。
諦めてヘッドフォンを外す。汗ばんだ頬を冷やすゆるい風。
ふいに闖入者である自分に気づいた。
彼女が毎日庭のように歩いている小道に、知らない外国人が立っているのだ。しかも夜に。

おばあさんは細い手で私の手をとって歩き出した。

月は天高く冴え冴えとして、長い影を落とす。
どこに行くのだろう。もう時間がない。バスが私をおいて出てしまうかもしれない。
手をふりほどくこともできるはずだった。でもよくわからない、微かな、罪悪感に似た
ざわざわした気持ちがそれを押しとどめていた。
畑を風が渡っていく。背の高い草がさらさらと揺れる。
さっきは静かだった虫が鳴き始めた。
おばあさんは相変わらずゆっくりと歩いていく。

着いたのはおばあさんの家だった。大きな屋敷の敷地の一角に立つ離れ。
母屋には誰か肉親が住んでいるのだろう、でも暗くて人の気配はない。
もうどうにでもなれという気持ちで靴を脱ぎ、重い機材を降ろした。

小さいがこざっぱりとした一人暮らしの部屋。
彼女は座布団がわりに布団をしき、汚れているからと遠慮する私を座らせると、ようやく
ほっとしたようだった。
映りの悪いテレビをつける。大きな袋の乾パンを私の手に開けてくれる。
そのまま二人でぽそぽそと乾パンをかじり、テレビを見た。

乾いた喉に乾パンはつらい。無理矢理飲み込む。テレビでは黒い服を着た政治家の
ような人が、大勢の聴衆を前に喋っている。何の話かはさっぱりわからない。
しんとした小さな村の夜に、その独特のリズムはやたらとはっきり響く。
時間がゆるゆると、でも確実に過ぎていく。白々とした蛍光灯。

画面のハングルを眺めているうちに、自分の世界からひどく隔たった場所に取り残されて
しまった気持ちになった。圧倒的な孤独感。
そしてふいに思う。きっと若い日の彼女も日本語にさらされたときそうだったのだろう。
知らない響き、馴染めないリズム。
なのにこんなに流暢に喋れるのだ。何十年もたった今でも。
なんてひどいことをしたのだろう。
それなのに、夜道にぽつんと立つ知らない日本人をわざわざ迎えに来て、自分の部屋に
上げてくれるのだ。
ぐらぐらした。

もう帰る気にはなれなかった。
ここで並んでテレビを見て、一人で暮らす彼女の夜が少しでも賑わうのだったら、それで
いいじゃないかという気がした。
陳腐な罪悪感、正義感だったかもしれない。でもその瞬間はそれが本心だった。

結局、安物の腕時計が私を現実へと引きずり戻した。あと10分でロケバスが出る。
「もう行きます。どうもありがとうございました」
温かくも冷たくもないように細心の注意を払って、ようやくそう言った。
彼女は何故帰るのかと不思議そうな顔をしている。
戸口に立つ彼女に何度も手を振り、私はその家を後にした。
角を曲がり、砂利道を転がるように駆け出した。

一睡もせずに町に戻った。
夜遅くホテルの部屋で、機材の手入れをし、温かいお茶を飲んだ。
こんなところで何をしているのだろうと思った。

食べきれずにポケットにしまい込んできた乾パンを食べた。
相変わらずばさばさと喉にはりついて、でもかすかに甘かった。




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