Garbage Collection


2006-03-04

§ *[usability] 書くことについて - 断章

「僕たちはなぜ思ったように書くことができないのか?」

僕の直感は、この問いに対してこう答える。「たぶん、人間がそういう風にできているからだ」僕たちは決して、自分の書きたいと思っていることを、思うように書くことは出来ない。これは能力が足りないとか、努力が足りないということとは根本的に違う。たぶん、僕たちはそういう風に出来ているのだ。

「書きたいこと」というのは明確な形を持っていない。そりゃそうだ、ちゃんと形を持っていたらそれを引き写すだけで文章が書けるはずだからね。無意識なんて言葉を引っ張り出さなくても、僕たちの中に霧に包まれた広大無辺な世界が広がっているのは誰にでも分かる。一方で、僕たちが語ろうとしている相手、これも誰なんだかよくわからない。目の前の誰かでさえ、自分とは全く違う価値観のもとで、全く違う考え方をしている。まして、それが顔も見たことがないネットワークの向こうの誰かならなおさらのことだ。

僕たちは、今この2つのもやもやした世界の間に、どうにか橋を架けようとしている。この橋の形が自分の思い通りになるはずないよね。

僕たちは時代からも言葉からも社会的な階層からも自分自身の無意識からも自由じゃない。「書くこと」というのは、自分以外のものすごくたくさんの要素が絡み合って起きる、とてもダイナミックなイベントなんだ。たぶん「自分が書きたいと思ったこと」というのはそのイベントのトリガーを引くだけ、そして書かれたものというのはそのイベントの記録でしかない。

文章を書くという作業は、「私」が「書きたいこと」を分析して文章に移し変えていくことではなく、「私」と「世界」が共同で、「書きたいこと」と戯れながら、もう一つ別の物語を作り出す作業のことだ。

人が「私とは誰のことか?」という問いを発しながら、決してその中心にたどり着くことなくその問いの周りをめぐり続けるしかないように。書き手は「私の書きたかったことは何か?」という問いから決して逃れることはできず、その中心にたどり着くことは決してできない。僕たちは、自分の書きたかったものに対して、「私が書きたかったのはこの文章ではない」という形でしか近づくことができない。

でも、僕はこれこそが文章を書く楽しさだと思う。僕たちはキーボードを叩きながら、自分の中のこぼれそうな想いの周りで、この世界と一緒にぎこちないダンスを踊る。パートナーの動きに合わせて、中心にある「想い」が揺らぐにつれて、そのステップはめまぐるしく変化していく。書くことの愉悦は、出来上がった作品ではなく、その動きの中にある。そしてたぶん、自分の理想とする動きだけを追い求める踊り手は、決してうまい踊り手にはなれないはずだ。

§ *解題

本当はもう少しまとまってからにするつもりだったけれど、ここで放り出すのも面白いかもしれない、と思ったので気が変わらないうちに公開。

この文章そのものが最初に意図していたものとは全然違うし、以前ここに書いた文章とも微妙に視点がずれている。もう一ひねりすればつながるけれど、ここで止めておくのが一番面白いような気がする。

多分そのうち、ここからまた別の文章がスピンアウトしてくるはず。それを楽しみに待つことにしよう。さて次は何がでてくるだろう?わくわく!